七夕


「司馬懿様〜、司馬懿様〜♪」
 少女は嬉しそうに上官の名を呼びながら、部屋に入ってくる。
 この曹魏の城では、日常的な光景だった。
 ニコニコ笑顔で護衛武将のは、青年の名を呼ぶ。
 考えてみれば、なんとも不思議なことなのだが、誰もそんなことは言わなくなっていたし、思わなくなっていた。
 あの司馬懿になつく人間がいるとは……。
 が、どのような種類の想いを抱いているかは、わからないもののと注意がつくが。
 少女は司馬懿のことが、間違いなく『好き』だった。

「見てください!」
 は手にしていた紙切れを司馬懿の顔の前に突き出す。
 仕事をしていた青年は不機嫌に視線だけよこす。
 最大限の譲歩、というヤツだった。
「短冊です!!
 これに願い事を書くと叶うんですよ♪」
 はニコニコという。
 己の護衛武将と、その『短冊』とやらを見比べた後、琥珀のような瞳は、ついっと仕事に戻った。
「え、あれぇ〜。
 もうちょっと、反応してくださいよぉ〜。
 どんな願いでも良いんですよ!」
 は食い下がる。
「そんな紙切れに書いてどうする?」
 司馬懿は新しい竹簡を紐解く。
「軒端の笹竹につるすんです」
 少女は小首をかしげながら言う。
 実は、きちんと覚えていないのだ。
 『何でも願いが叶う』というところに惹かれてろくろく聞きもせずに、ここまで来てしまったのだ。
 この少女らしい展開だった。
「ほお。
 では、自分の願い事がさらされるのだな」
 司馬懿は皮肉げに笑う。
「?」
「恥ずかしくはないのか?」
「何がですか?」
 はきょとんとする。
 少女の問いを、青年は軽く無視した。
 良くあることなので、も気にせず話を続ける。
 この素敵な行事を、上官『にも』ぜひとも参加してほしいのだ。

「それで、司馬懿様もやりましょう!
 きっと、楽しいですよ☆」
「きっと?
 ずいぶんと希望的な観測だな」
「たぶん」
「そうか、たぶんか」
「たいてい」
「私は忙しい」
「おそらく」
「だんだん弱気になってきているな」
「うっ。
 だって、司馬懿様じゃないから、絶対なんて約束できません」
 は不満げに言った。
 司馬懿は盛大なためいきをついた。
「そりゃあ。
 その、司馬懿様が楽しかったら、嬉しいですけど……。
 心の中まで強制はできないですよ」
 この季節の太陽のように暑苦しい声は、どよーんと沈む。
 時計の針を逆戻したかのように、ジメジメと。
「その頭は飾りではなかったのだな」
「司馬懿様、ヒドイですぅ。
 ちゃんと考えてますよ〜。
 そりゃあ、考えている端からしゃべってるかもしれませんけど」
「自覚はあったのか」
「そりゃあ、もちろん。
 そのおかげで、いったいどれぐらい不利益になったかぁ。
 司馬懿様が気にしない性格で、本当に良かったですよー。
 意外に、司馬懿様って大雑把ですね!
 って、はっ。
 い、今の忘れてください!
 寛大だって言いたかったんです!!」
 はあたふたと慌てる。
「そうか、大雑把か」
「そんなつもりはなかったんです〜。
 クビも減給もしないでください。
 私には待っている家族がいるんですよ」
 少女のクリッとした黒い瞳の端に、涙が浮かぶ。
「一度も減給処分にしたことはないがな」
 司馬懿は読み終わった竹簡を巻きなおす。
「え、あれ?
 そう言われてみれば、そうですね。
 どうしてですか?」
 は首を傾げる。
「減給するにも、書類を作成しなければならないからな。
 そんな暇は、私にはない」
「あ、そうなんですか!?
 じゃあ、これから先も」
「そうとは限らぬな。
 私の我慢がいつまで持つか」
「えぇ〜!
 困ります!!」
「該当するようなことをしなければ良いだろう」
「無理です」
 は間髪入れずに答える。
「少しは考えてみる振りをしたら、どうだ?」
 司馬懿は少女を見る。
「それこそ、時間のムダです」
「時間など有り余っていて、いつも暇そうにしているではないか」
「自分のことを良くわかってるって、言ってくださいよぉ。
 だって、司馬懿様を怒らせないって、常人には到底ムリです。
 瞬間湯沸し器並に切れやすいって、この前、殿と話してたんですよ。
 しかも、いつまでもぐちぐちと覚えてるって……」
 そこまで言って、の顔が引きつる。
 いくら本当のことでも、言ってはいけないことが世の中には多々ある。
「えーっと、その。
 なんて言えばいいんですか?
 世間話です!
 その場の流れってヤツです。
 そんなこと言うつもりは……ちょっと、その。
 ごめんなさい。
 かなり、ありました」
 正直には言った。

「でも、だからって七夕、やらないって言いませんよね」
「やると言った記憶はない」
 司馬懿は新しい竹簡を手に取る。
 溜め込んだつもりはないが、仕事は一向に減らない。
 原因がどの辺りにあるか、わからなくもないが、司馬懿は真面目な性格をしているので、手を抜くということをしなかった。
「うっ。
 楽しいですよ。
 どんな願いも叶うんですよ」
「迷信だろう」
 そう言い切ると、その視線は竹簡の文字を追いかけ始まる。
「それでも良いじゃないですか。
 もし、叶ったら素敵ですよ」
「ずいぶんと、こだわるな」

「司馬懿様は何にも願い事がないんですか?」

「ないな。
 願いは、他人に叶えてもらうようなものではない。
 自分の努力でつかむものだ」
 しばし考えた後、司馬懿は言った。
「……立派すぎて、突っ込みどころがありませんよぉ」
「第一、決まりきった願い事をする人間に誘われたくはないな」
「え?」
「お前がその紙切れに、書くことなど決まっている」
 司馬懿の言葉に、少女の顔に動揺が走る。
 だが、仕事に追われている軍師は、それを見ることはなかった。
「金、だろう」
「あ……、はい。
 バレちゃってますねぇ」
 テヘッっと少女は笑う。
 手にしていた紙の切り端を、はクシャッと握りしめる。
「理解したなら、巻き込むな」
 ぴしゃりと拒絶する言葉だった。
「はい。
 すみません。
 もう、言いません」
 それでも、はニコッと笑った。

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