「何でも言うことを聞いてくれるんだったな」
ある日、司馬懿は言った。
麗らかな春の終わりのことだった。
1日の終わり、どっぷりと暮れかかった夕方。
司馬懿は仕事中毒気味なので、これ以降も仕事をするのだが、は私室に帰っても良い時間だった。
晴れ晴れとした気分になる、ちょっとした贅沢な時間が、あっさりと崩れ始めた。
「えーっと、何のコトですか?」
は引きつったような笑顔を浮かべた。
「4月1日の話だ」
「ずいぶんと、昔の話をほじくり返すんですね」
はじりっと司馬懿との距離を取る。
「豪華景品ではなかったのか?」
「そんなことも言いましたね。
若気の至りってヤツですよー」
乾いた笑みのままは言った。
「色々考えたのだが」
「色々って何ですか!?
しかもかなりの期間、何を考えていたんですか!?」
黒い大きな瞳は気味悪そうに司馬懿を見上げる。
「せっかくの楽しみだ。
有効に使おうと思ったまでのこと」
「うわぁ〜。
気持ち悪いですよ、司馬懿様。
変なことを、頼まないでくださいね」
「無理難題も引き受けるのだろう?
夜伽であろうと」
「病人の看護、主君の警備などのために夜通し寝ずに側に付き添うこと。
ですよね。
次の日、ちょっと辛いですけど。
それなら、かまいませんよ。
司馬懿様の言い方、含みがあるから、勘違いしちゃいますよ〜」
はへらへらと笑う。
「もう一つ、意味があるだろう?
同衾と言う意味が」
「添い寝で良いですか?」
間髪入れずには言った。
「契りを交わす、と言う言葉を知っているな」
「……約束をするコトですか?」
「では、情交ならば?」
「親しい交際ですよね」
「交合」
「……。
難しくてわかりません!!」
は赤面して叫んだ。
「冗談だ」
司馬懿はサラッと言った。
「……面白くありません、全然」
「安心しろ、夜伽など頼まない」
「じゃあ、何をすれば良いんですか?」
ほっと一安心したは無邪気に尋ねる。
「くちづけを一つもらおう。
大したことではないだろう?」
「えっ!?」
「どうせ、したことがないのだろう?
初物も悪くない」
司馬懿はニヤリと笑う。
「で、でも……。
し、したことない、か、から。
あげられ……、ま、ません!」
は首を横に小刻みに振る。
「今宵、もらいに行く。
ほんの少しの間、大人しくしていれば終わる。
逃走したら、それなりのことをしてもらうからな」
「……はい」
身から出たサビ。
はうるうるしながら、うなずいた。
その夜。
有言実行、司馬懿はの部屋に訪れた。
部屋に入るなり、小柄な少女を抱き寄せ、寝台に座った。
無論、逃走防止の策だった。
腕の中の少女は居心地悪そうに、震えていた。
クリッとした大きな瞳は、小動物のように落ち着きがなく、あちらこちらを見る。
司馬懿の視線を逃れるように。
衣を通して、ほんのりと伝わってくる体温に、司馬懿は満足する。
少しばかり腕に力を込め、少女との距離を縮める。
「ひゃっ」
小さな悲鳴が上がるが、司馬懿は無視した。
青年は左手ですべらかな頬にふれる。
ビクッと、は身を縮める。
それから、懇願するように司馬懿を見つめる。
上目遣いでこちらを見上げてくるので、優越感がくすぐられる。
「ずいぶんと大人しいな」
司馬懿は少女の耳元でささやく。
はわずかに身を引くが、司馬懿はその分の距離を埋める。
少女の肩をしっかりとつかんだまま、薄紅色に染まった柔らかな耳に唇を寄せる。
声にならなかった息がの唇からもれる。
素直な反応に青年は笑む。
少女の額に、頬に、くちづけを落とす。
いちいちビクリッと身を引く少女の顎をとらえ、固定してやる。
その度、潤んだ黒い瞳は何かを言いたそうに司馬懿を見る。
が、少女の許容量はとっくの当に限界だった。
その唇は意味のある言葉を紡がない。
愉しみは最後まで取って置く性質の司馬懿は、の唇にはふれない。
青年の細い指先は、少女の頬から首筋にかけてのまろやかな曲線をなぞる。
何かに耐えるようには、青年の衣をきゅっと握る。
ぎこちなく背に回された腕が痛々しいほどに震えているのが伝わってくる。
これはもう恋の駆け引きと言うよりは、一方的な加虐の悦楽だった。
ほの暗い欲望の充足に、司馬懿はひたる。
少女の唇に親指を押しつける。
紅など塗っていない唇は瑞々しく、それ自体がそそる。
くちづけを待つように、かすかに開かれたそれの感触を味わう。
吐息と共に、唇が彼の名を綴る。
「目をつぶれ」
司馬懿は無垢な少女にささやいた。
はためらいがちにその瞳を伏せる。
長いまつげが繊細な影を頬に落とす。
歳よりも幼く見える少女にしては、匂うような色香があった。
誰も知らない唇を、司馬懿は堪能した。
「嘘つきです」
恨みがましく少女は青年を見上げる。
「何がだ?」
司馬懿はかすかに笑む。
面白がられているのが、鈍いにもわかる。
「ほんの少しの間って、言ったじゃないですか」
司馬懿の腕の中で、は声をとがらせる。
「くちづけ自体は、それほどの時間をかけなかっただろう」
「……。
どうして帰らないんですか?」
「思ったよりも抱き心地が良いからな。
このまま私の部屋に連れ帰るか」
司馬懿は剣呑なことをつぶやく。
「や、約束が…ち、違います!
夜伽はなしって!!」
少女の顔から血の気が引く。
「ならば、いま少し大人しくしておれ。
飽きたら言われずとも帰る」
「飽きなかったらどうするんですか?」
「その頃には、お前が寝ているだろう。
眠る女を襲うような無粋な輩と同列にして欲しくはないものだ」
司馬懿は鼻で笑う。
「……」
はたっぷりと逡巡した後、青年に身を預けた。
いつまでも背すじを伸ばして、しゃんとしているのは疲れる。
他人の腕の中は心地良い、とは実感した。
一番上の子として育ったため、こういう機会は今までほとんどなかった。
記憶の中に埋もれていた思い出がぼんやりと浮かび上がってくる。
それはまだ父が生きていた頃で、がまだ弓を扱えないほどの子どもの時。
は目をつぶり懐かしい過去を反芻する。
眠りにつくほんの一瞬前の出来事だった。