その知らせは、光の速さで伝播した……たぶん。
各国の軍師たちは、その情報に目を疑い、ついでに司馬懿の頭の中も心配した。
act1 呉
「信じられませんが……孫権様、大変です!」
孫呉を背負って立つ少年軍師は、主君の部屋に乱入した。
礼法も、手順も、守らずに陸遜はやってきた。
彼にしては珍しく。
本当に焦っていたんだろう。
……まあ、礼法を守らない配下が山のようにいる孫権は、そんなことで怒ったりはしないのだが。
「何があったのだ?」
そろそろ囲碁でもしようかと、つまり抜け出す準備をしていた碧眼の青年は、ギクリっとする。
「孫権様、何かありましたか?」
歩くライターこと、陸遜はにこやかに笑った。
「何のことだ?」
「まさか、これから、どちらかへ行かれる……そんなことはありませんよね」
「ま、まさか!!
気分転換をしようとは思っていたが。
ずいぶんと仕事は、片付いたぞ、ほら!」
孫権は書卓の上に積み重なる竹簡を指す。
「ああ、そうなんですか。
早とちりだったようですね」
「それで、陸遜。
大変なこととは何だ?」
「あ、そうでした。
信じられない情報を手に入れてしまいました」
「魏が蜀と手を結んだ、とかか?」
いつでも最悪なほうから考える男、孫権。
彼は生まれついての苦労性で、心配性だった。
「諸葛先生とあの司馬懿が手を組んだら、確かに恐ろしいですね。
さしもの孫呉も沈みます」
孫呉の軍師は、あっさりと言った。
ニコニコ笑顔のまま、首肯して見せたのだ。
明日は天気がぐずつくので、洗濯は今日のうちにしておきましょう。と告げる天気予報士のように、張りついた笑顔で言った。
「……父上、兄上、お許しください。
私の代で、この地は……」
「落ち着いてください!
そこまで、悪い話題ではありません。
むしろ、利用できるかもしれません」
「……利用?」
「はい。
実は――」
act2 蜀
「丞相〜、丞相!!
大変なんですーーー!!」
天水の麒麟児・姜維は、昼下がりに力いっぱい叫んでいた。
風雅な路亭(あずまや)で、ゆっくりと午後のお茶を楽しんでいる師の元まで走っていく。
蜀の丞相・諸葛亮は、妻・月英の淹れたお茶の香りを楽しんでいる最中だった。
「大変なんです!」
路亭の入り口で姜維は、息をつく。
知らせを受け取って、ここまで走ってきたのだ。
息が切れるのは、当然のこと。
他人に任せるということがどうにも下手な人間だった。
「これを」
月英は、自分のお茶を差し出した。
淹れたばかりの茶は、湯気がゆらりと立っていた。
全力疾走してきた人間に出すには、やや適さない飲み物だった。
何より淹れたてのお茶だ。
一気飲みはできない……が、笑顔で差し出されてしまったので、姜維は受け取った。
「ありがとうございます」
「司馬懿に動きがありましたね」
白羽扇をゆったりとあおぎながら、諸葛亮は言った。
「すでに、ご存知でしたか!
さすがは丞相ですね!!」
姜維は感激した。
「それで、あなたが手に入れた情報をお聞きしましょう。
わずかな違いがあるやも知れません」
諸葛亮は言う。
何となーく、不穏な空気がその背後に漂っていたが、姜維には見えるはずもなかった。
わかりやすく言えば「夫婦水入らずを邪魔しやがって、使えない弟子だな」というところだろうか。
「はい。
魏にいる密偵から、密書が届きました」
姜維は言った。
とりあえず、密偵から届くのは、密書に決まっているだろう! と突っ込む人間は、この場にはいなかった。
「それによると――」
あの司馬懿に、恋人ができた。……しかも、美人……らしい
act3 再び呉
「羨ましい」
「……孫権様、今、何かおっしゃいましたか?」
「いや、な、な、何も言ってない!
気のせいだ!」
「そんなわけで、しばらく魏に潜入しようと思います。
この情報が本当かどうか、この目で確かめに行きます」
「自ら行く必要はないだろう」
「とうとう、あの司馬懿に弱点らしい、弱点ができたわけですから。
その恋人に接触してきます。
魏の機密を知っているかもしれません。
懐柔して、恋人経由で、司馬懿に誤情報を握らせるのも良いですね。
あと、その場で拉致ってくるのも悪くありません。
そうなると、私自身が向かったほうが早いです」
「まあ、そういうことなら……、許可しよう」
孫権はしぶしぶと同意した。
軍師不在の間に、蜀が攻めてきたらと想像するとやや憂鬱になるが……。
「それに、美人の恋人なんて、とても気になるじゃないですか?
あの司馬懿の恋人なんですよ。
魏の皇帝を僭称(せんしょう)する男の妻のように、絶世の美女なんでしょうか?
それとも、諸葛先生のご夫人のように、賢い女性でしょうか?
とても気になりませんか?」
陸遜は言った。
そちらが本音か、とは孫権は言わなかった。
act4 再び蜀
白羽扇をゆったりとあおぎながら、諸葛亮は姜維の話を聞いた。
最後まで聞いて、……おもむろに口を開いた。
「なるほど。
私の得た情報と、同じですね」
ぶっちゃけた話あてずっぽうで「司馬懿に動きがあった」と言ったのだが、まさかそんな話だったとは……。
意外すぎて、笑いがこみ上げてくる。
が、そんなことをおくびにも出さずに
「では、姜維。
あなたが直接、見てきてください」
と、諸葛亮は言った。
「はい!」
「司馬懿の恋人がどんな人物なのか、仔細をもらさずに報告してください。
今後の作戦に役に立つかもしれません」
「わかりました、丞相!」
姜維は拱手をすると、路亭を後にした。
さて、と諸葛亮は思う。
あの司馬懿の恋人が務まる女性とは、どのような女性であろうか。
ろうたけて見目麗しく、声は雲雀のように澄んでいて、その身のこなしは春風に舞う花弁のようで、打てば響くように賢く、決してでしゃばらない。
そんな女性だろうか。
現実的ではない理想に、諸葛亮は苦笑する。
理想「だけ」は、人一倍高そうな男が選んだ女性が気になった。
「ああ、高いのは理想だけではありませんね。
その矜持も、高かったですね」
「何のお話ですか?」
月英は穏やかに尋ねる。
「いえ、あの司馬懿の恋人とは、どのような人物なのでしょうね」
「さあ。私にはわかりません」
「私にもわかりませんよ。
一つだけわかるのは」
「?」
「あなたより、素晴らしい女性はいないということです」
「……孔明様」
「本当ですよ、月英」
すっかりと温くなってしまったお茶を、諸葛亮はすする。
act5 ようやく魏。司馬懿の書斎
司馬懿の恋人・は、各国に波紋を呼んでいるなんて、露とも知らずに、いつもどおりに過ごしていた。
「司馬懿様、司馬懿様、大変です〜!」
書斎に走りこんでくる。
「走るな!」
司馬懿の文句も意味がなく、は盛大に裳の裾を踏んだ。
小柄な少女の体が一瞬、宙に浮く。
護衛武将だった頃ならば、とんぼ返りの一つや二つ決めて見せるのだが、残念ながら女装中。
たっぷりとした袖や、引っかかりまくりな霞披(ひれ)やら、長い裳裾はとんぼ返りには向いていなかった。
あと一秒遅かったら、少女の低い鼻がさらに低くなっただろう。
地面と仲良くする直前に――。
バラバラ
何かが落ちる音がした。
まるで竹簡とかが、床に落とされたような音だった。
それがごく側でした。
へ?
あれ……痛くない。
「重い」
百年の恋だって冷めそうな勢いの言葉が降ってくる。
はそろそろと見上げた。
琥珀にも似た色の瞳がじーっと見つめていた。
……私。
ん? 今、どうなってるの?
あれ、もしかして、もしかしなくて。
…………抱き止められ……えぇーーっ!?
秋の落ち葉のような墨の香りに、すべすべとした肌触りの絹の衣。
それに、あたたかな人間の体温。
五感が間違いない、と告げている。
「って、スミマセン〜!!」
状況をようやく飲み込めた少女は、慌てて体を起こそうとする。
が……、どうも勝手が違う。
体が固定されていて、動けないのだ。
もちろん、が全力で抵抗すれば話は別だ。
護衛武将時代に覚えた武術の粋を持ってすれば、貧弱……もとい、一般的な体力の持ち主である魏の軍師を排除するのはたやすい。
ここで、間接技とか取ったら、怒られるよね。
頭突きして、あご強打とか。
あるいは、かみつくとか。
怒られるどころか……、下手すると牢獄行きだよね。
「走るなと言っただろうが」
「スミマセン。
気をつけます」
「その言葉、何度目だ?」
「物覚えが悪いので、覚えていません……」
少女の語尾がだんだんと弱くなっていく。
「今月に入ってから8度目だ」
「あ、そうなんですか?
意外に少ないですね」
はニコッと笑う。
「一日おきの計算になるな」
司馬懿は淡々と事実を告げる。
「でも、転んだのは、今日が初めてですよ」
もしや……。
この姿勢は、エンドレス説教を聞かせるため!?
司馬懿様が納得するまで、説教される……とか。
うわぁ、ちょー最悪。
走って転んでも、司馬懿様がケガするわけじゃないんだから……、あーでも司馬懿様に恥をかかせてる、のかなぁ。
私も一応、司馬懿様の、こ…………。
「人が話しているのに、考え事とはいい度胸だな」
「へ?
私、しゃべってましたか!?」
「なるほど」
ためいき混じりに司馬懿は言った。
「今、鎌かけましたね!!
司馬懿様、ヒドイです〜!」
「賢くなったな」
「え、本当ですか? ……じゃないです!!
いつまで、こうしているんですか?」
黒い瞳がキッとにらむ。
とにかく命令に従わなければならなかった護衛武将時代とは、違うのだ。
「不満そうだな」
「うっ……、不満じゃありません」
そう言いながら、声も目も裏切っていた。
黒い大きな瞳はみるみる涙をためていく。
冬のお日さまだ、と少女がたとえる双眸に迷いがよぎる。
「馬鹿め」
司馬懿はそう言うと、少女を立たせてやる。
は目を瞬かせ、それから小首をかしげる。
自分を抱いていた手は、床に散らばっている竹簡を拾い上げていた。
「あ!」
は慌てて、残りの竹簡を拾い上げ、司馬懿に差し出す。
「どうぞ」
「ふん」
司馬懿は竹簡を受け取り、書卓につく。
「それで、司馬懿様、大変なんですよ」
はいつもの定位置で、話し出す。
書卓の側に置かれた床机(椅子)は、少女専用だった。
「院子の花が咲きました」
「花なら、いつでも咲いているだろう」
「でも、今しか咲かない花もありますよ」
はニコニコと笑う。
「興味がない」
司馬懿は紙を広げ、筆を取る。
「あとで、一緒に見にいきましょう」
「勝手にしろ」
「約束ですよ♪」
は嬉しそうに言った。
act6 魏。院子
が語っていた真っ白な花を咲かす木の下で、意外な人物同士が顔を合わせた。
どちらも、曹魏の官吏が好みそうな袍をまとっていたものの、特徴的な顔だけに、お互い目を見開く。
「あー!」
(叫ばないでください)
陸遜は姜維の口を無理やりふさぐと、物陰につれこむ。
「奇遇ですね」
ニコッと陸遜は言った。
軽く酸欠状態になった姜維は、酸素を取り込むので忙しかった。
「諸葛先生を見限って、魏に降ったんですか?
そういえば、姜維殿は、もともと魏の人でしたね。
里帰りですか?」
「陸遜殿。どうして、こちらへ?」
現在の蜀と呉は、敵同士でなければ、味方でもない状態であった。
動向しだいで、敵にも味方にもなる。
呉は、猫の目外交をもっとも得意とする。
「観光です」
しれっと陸遜は答える。
十人の人間がいたら、九人は疑うだろう。
嘘っぽいどころの騒ぎではない、嘘くささだった。
「ご冗談を」
姜維はムッとする。
「はい、冗談です。
私が先に質問したのに、姜維殿が質問返しをしたんですよ。
あなたの質問に、答える義務はありません」
「司馬懿の恋人を見にきたんです」
「おや、そちらにも情報が回っていたんですね」
そうなると、ガセかもしれませんね。と陸遜はつけたす。
「丞相もご存知の情報が、嘘のはずがない!」
「ありがとうございます」
陸遜は二割り増しの笑顔で言った。
「あ」
口を滑らしたことに気がついた姜維は、唇をかむ。
「同じ目的のようですね。
協力しあいましょう。
一時休戦です」
「……そうですね」
姜維はしぶしぶうなずいた。
かくして、蜀呉同盟は結ばれたりなんかした。
「それで、司馬懿の恋人とはどんな女性だと思いますか?」
陸遜は尋ねる。
「賢く、美しい女人ではないのでしょうか?」
「美人という噂ですからね。
絶世の美女とまでいかなくても、かなりの美貌の女性でしょうね」
若者たちはしばし、司馬懿の恋人を思い描いた。
act7 魏。院子を臨む回廊
「あれ。
何か、今、動きませんでしたか?」
妙にはしっこい少女は、院子を見つめる。
「そうかぁ?」
夏侯淵も院子を見る。
「気のせいではありませんか?」
張コウも言う。
「おかしいなぁ」
は小首をかしげる。
「それよりも、。
お一人ですか?」
張コウは尋ねる。
「はい」
「それは珍しいですね。
最近、あなたが出歩くことはほとんどなく、私は寂しかったですよ。
あなたの蝶のように可憐な姿を愛でることができず、私という名の花はしぼんでしまいそうでした」
「それはともかくとして、物足りなかったのは、確かだな」
「出歩くと、司馬懿様が怒るんです。
理由はちっともわからないんです。
司馬懿様が教えてくれないから。
今日は、殿とお話があるから、それで今だけ暇なんです」
は答える。
「司馬懿殿は、やきもち焼きなのですね。
ああ、何て罪深いのでしょう。
あなたは美しく、魅惑的ですから、さしもの司馬懿殿でも耐え難いのですね」
意味不明なことを張コウは言う。……それも、いつものことだったが。
「久々に、鍛錬するか?
弓を見てやろう」
「あ、遠慮しておきます。
鍛錬とかすると、司馬懿様、機嫌が悪くなるから。
何でも、護衛武将ではないのだから、鍛錬する暇があるなら、礼儀作法の一つでも覚えろ。って」
「そうか、残念だな。
曹魏一の護衛武将だったのにな」
夏侯淵はの頭をくしゃっと撫でる。
「そんなことないですよ!
先輩たちだって、スゴイです。
どちらかと言うと、私は役立たずで」
寂しそうには微笑んだ。
褒められることをしたわけじゃないから、褒められるたびには萎縮する。
黒い瞳は院子に咲く花の、揺れる花弁を見つめ
「妙才様、矢を貸してください」
「お、何だ」
そう言いながらも、夏侯淵は弓と一本矢を手渡した。
少女は反射的に弦を引き絞る。
ハッと顔を引き締め、張コウが走り出す。
矢は真っ直ぐ宙を裂き、何かを当てる。
二つの物陰が院子を横切る。
その移動速度は速く、張コウにも追いつくことは難しそうだった。
言動はともかくとして、曹魏の将星である張コウは立ち止まった。
追いかけても無駄だからだ。
「曲者か?」
夏侯淵の言葉に、張コウは肩をすくめる。
「私としたことが逃げられました」
矢が縫いとめた衣を張コウは抜き取る。
「どうやら、魏の官吏の真似事しているようですね」
「面倒なことになったなぁ」
夏侯淵は困ったように言う。
「スパイがいるんですか?」
は尋ねた。
「あなたがわずらう必要はありませんよ」
張コウは微笑んだ。
「弓の腕は落ちてねぇみたいだな」
「あ、これ。
ありがとうございました!」
は弓を返す。
「引退なんて、本当にもったいねぇな」
「そんなことないです。
妙才様、褒めすぎですよ」
少女は小さく笑った。